吉田準輝
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吉田準輝は1949年12月7日、7人兄弟の末っ子として京都市に生まれた。
母親が切り盛りする焼肉レストランで支える家庭の経済状況は決して裕福なものではなかったそうだ。
日本語に吹き替えられたアメリカの映画やテレビ番組を見るのが好きだった吉田は東京オリンピックで聞いたアメリカ国家に感動し、1968年19歳の時に家族の反対を押し切り渡米を決意。
たった500ドルしか持たず、英会話もままならないままの渡米。
シアトルのタコマ空港に到着すると吉田氏は帰国分のチケットを換金し中古車を購入、その車の中で暮らし始めるが、家族からの資金援助が打ち切られたため経済状態は困窮し、餓死寸前で2度も緊急入院をしたそうだ。
シアトル・パシフィック大学神学部に入学しようとするが、英語ができないと言う理由で大学入学を拒否される。住み込みの庭師や航空会社のキッチンなどで生計を立てながら漸くコミュニティ・カレッジに入学。しかし学費が払えなかった為、学費の代わりに日本で習っていた空手を教えるということでなんとか入学を許可された。
しかしこの空手がきっかけとなり、自身で空手教室を開く傍ら大会にも積極的に出場し、7段という腕前になった。
生徒数は急増し、ワシントン州とオレゴン州における日本空手道連盟の主席師範に任命されるまでになった。刑務所の看守、警察官、SWATなどにも空手を教えたそうである。
しかし、空手師範としての成功にもかかわらず経済状態は困窮していたようで、生徒からもらったクリスマスプレゼントのお返しもできない状態。そこで、吉田は実家のレストランで使用していたソースを作りプレゼントした。
このソースは思いのほか好評で、吉田夫妻も意外なことに多くの生徒から「もっと欲しい!!」と言い出したのである。また、そのユニークなソースの評判は口コミによって広がり、吉田たちは製品化を決心。
資金のなかった吉田さんは親戚や友人、そして妻リンダの父から借金をして15万ドルを工面して、空手教室の地下で10ガロンの大鍋でソースを作り、それを買った空き瓶に、手作業で一瓶一瓶詰めながら生産を続けた。
二度に渡って破産寸前の経験をしながらもヨシダ・グルメ・ソースの成功を信じて、根気と独自のユニークなアイディアで大手小売店のバイヤーを説得し店に置いてもらうことに成功した。吉田自身が店頭に立ち、試食販売を行った。
会員制スーパーであるコストコとの取引が成功し、”吉田グルメソース”は世界の食品マーケットの店頭にも次々とは並んでいった。
初めの会社吉田食品を設立後、不断の努力による拡大で総従業員300人以上、年商1.8億ドル強の17社からなる強力な複合企業、ヨシダグループが構築された。
吉田さんは現在、地元の慈善活動にも積極的に参加し、オレゴン州ポートランド港湾・空港公団の理事をつとめるなど、地域へも多大な貢献をしているようである。
「成功とはお金ではない。お金は二次的な事であり、物質的成功は人の価値から発生する」
「商品を売る事より先に、自分自身を売る事が大切」
と吉田準輝は語っている。
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